――消えていく。
見えていた景色が、色褪せていく。
あの娘の、姿も。
だけど後悔は無い。
こうなる結末を知っていてなお、俺は選んだのだから。
――誇り高き王。
――寂しがり屋の女の子。
――そして、俺が愛した少女。
――……華琳。
身体の感覚すらも曖昧になっていくが、そこに恐怖はない。
このまま元の世界に戻るのか。
それとも破滅の文字通り消滅するのか。
それはわからないけれど、でも、平気だ。
短かったようで長かったこの記憶があればきっと大丈夫。
……心からそう思えるから。
だから――…………。
『でもそれは本当に?』
唐突に、虚空から声が下りてきた。
もはや何も見えず何も聞こえないはずの俺に、しかしはっきりと。
『確かに、この外史は終端を迎えた。幕が下りれば物語は閉じられるもの』
そうだ。
この物語は終わりを迎えたんだ。
俺を突端とした物語は、俺を終端として閉じられる。
『なら、本当に物語は終わりを迎えたのかしら?』
え……?
『たしかに、貴方の知る歴史から完全に外れたことでこの外史は終わりを迎えた。でも』
――――。
『終端を迎えた物語も、望まれれば再び新生する。それが、外史』
真っ暗に閉じられていた視界に何かが見えはじめる。
ぼんやりとしたそれはやがて像を結ぶ。そして見たのは美しく光る銀月と、銀光を反射する涙。
そして、泣き崩れる彼女の姿。
それを見た瞬間、宿った熱。
ほんの僅かな熱はあっという間に身体中を駆け抜け、消えかかっていた感覚のすべてを新生する。
どうしてだろう。
どうしてこんなにも揺さぶられるのだろう。
後悔は無い。
そう、俺も彼女も言った。
そこには一片の嘘もなかった、そのはずなのに。
――華琳が泣いてる。
気高く、誇り高き王。
でも本当は寂しがり屋でヤキモチ焼きで。
とても愛しい少女。
ギシリと強く拳を握り締める。
どうして俺はあそこにいないのだろう。
どうして彼女の側にいないのだろう。
居れば
もし、俺があの場所に居たなら――――!
『では開きましょう。新たなる外史…………ユメノツヅキを』
声は聞こえるとすぐに溶けるように消えていった。
全身の感覚は再び消え、同時にさっきまで見えていた華琳の姿も見えなくなっていく。
俺はただその光景を只管に瞼の裏に焼き付ける。
忘れぬように。違わぬように。そして道標を失わぬように。
俺は華琳のことを想ったまま、その意識はゆっくりと落ちていった。
『うふふ。それでこそご主人様よねん♪』
***
劉備――桃香の主催した宴が終わってから、風に当たりに城壁に来ていた。
見張り台のあるここから見下ろせる城下も昼間の活気が嘘のように寝静まっている。
「ふう……」
冷たい風が身体の熱を奪っていく。
それが火照った身体にはちょうど良かった。
「……一刀」
最近こうして一人になるとつい口を付いて出てしまうのがこの言葉だった。
思わずもらしてしまった言葉に軽くため息をつく。
あれから幾許かの時間が過ぎた。
戦乱の世は終わり、その傷跡も少しずつではあるが癒えてきている。
同時にそれはあの大馬鹿者が居なくなってから経過した時間でもあった。
忘れる気はさらさら無い。
でもこうも頻繁に思い出してしまうのはどうなのかーと華琳自身思ったりもした。
もちろん王としてあるべき時を侵蝕してしまうことは無いが。
それでも、自分にとってアイツがどういう存在だったのかを再確認させられているようで、どこか気恥ずかしくそして悲しくなる。
「バカ……」
恨んでやるから。
絶対に忘れてやらないから。
側にいるって言ったくせに、本当に居なくなった大馬鹿者。
手近なちょうどいい位置にあった壁に手をつき、俯く。
油断すれば零れてしまいそうな涙を押しとどめるように。
あんなに、枯れるんじゃないかと思うほど泣いたというのはあの時が初めてだ。
きっとあそこまで泣く事はもうないだろう。
もう一度、消え入りそうな声で恨み言を吐き出すとそのまま華琳は沈黙した。
……しばらくの後、華琳は顔を上げた。
そこにはさっきまでの少女としての面影は無い。
また明日からは王としての多忙な日常が始まる。
いつまでも少女のままではいられない。自分は少女である前に、王なのだから。そんな思いの表れだった。
少女の面影を振り切るように、くるりと頭上で青々と輝く月に背を向け華琳は歩き出す。
一歩一歩進む足取りに迷いは無い。
そのまま城の中へと姿を消そうとした――その時だった。
「……え?」
間の抜けた声が華琳の口から零れるのと時を同じくして目を焼かんばかりの眩い白に、辺り一帯が染め上げられた。
「~~~ッ!?」
次いで耳を劈く轟音。
ほぼ間断なく続いた光と音の攻撃に、直撃した華琳の身体は反射的に瞼を落とし、手で覆い、耳に手をやる。
そして瞼の裏から覗く白が収まった頃を見計らって、華琳は再び目を開いた。
あの凄まじい轟音もすっかりなりを潜めている。
一体何事かとすぐに目を四方八方にやるがなんの異常も見られない。
五胡か妖の妖術か――?
あまりの異常性に、華琳は思わず空を仰ぐようにして――――それを、見た。
「……あ…………」
そこにあったのは変わらずに天に輝く銀の月。
どこか鋭く、どこか優しい青々とした月の光。
その月から零れるように落ちた涙の軌跡。
そしてその先にあるのは――――。
「……あ…………ッ」
一歩。
また一歩。
ゆっくりと踏み出す足取りは次第に速く。
最初は歩くように、だんだんと走り出すように、そうして最後には疾走するように。
気づけば、華琳は駆け出していた。城とは逆の方向に向かって。
後ろからおそらく桂花だろう声が聞こえるも無視して。
――どうしてこんなことをしているんだろう。
そう華琳は自問する。
王としての自分がまずやるべきなのはさっきの異常現象についての情報を集め、住民達の安全を確保すると同時に動揺を抑え、はややかに事態に対処する事ではないのだろうか。
ましてや今日は桃香や雪蓮達、要人が来ているのだから尚更だ。
だっていうのに、何をしているんだろう。
単身で武器も鎧も身に着けぬまま、ただ想い一つで息を切らしながら走っている。
王としての華琳は言う。
戻れ、と。
されど少女としての華琳は言う。
行け、と。
普段は王としての華琳に容易く押さえ込まれてしまう少女の華琳はしかし、この時だけはそれを撥ね退けるぐらいに強かった。
息は上がり、地面の凹凸に足を取られよろけそうになって、それでも駆ける足は止まらない。
さしたる根拠なんかない。
だけどさっきからどうしても脳裏にちらつくのだ。
流星を見た日に出会った、アイツの姿が。
そもそもさっきのあれは流星ともいえるかどうか微妙なもの。
だというのに理由なんてそれで十分だと裡なる華琳は言い、足を止めることは無い。
茂る木々から伸びた枝を強引に振り払い、強引に前へ前へと進んで。
――最後の一歩を踏み出すと、急に視界が開けた。
さらさらと流れる川と水音。
微かに吹く微風に、木々が揺れる。
静寂の夜闇に川面に映る琥珀の月。
降り注ぐ月の光が反射して、どこか幻想的だった。
その光景にまぎれるように、一人。
「いってー……」
身に纏う服が月光を照り返し、まるでこの世のものとは思えない。
……なのだが。
それはあくまでも服だけであって、本人の雰囲気がそれを霧散させてしまっていた。
じっと、身じろぎせずに見ていた華琳の口元に笑みが浮かぶ。
同時にかろうじて抑えられていた感情が爆発した。
「バカ……ッ!」
「うわ!?」
倒れたままの少年――一刀に全身で華琳は抱きついた。
突然のことに慌てる一刀をよそに華琳は抱きつく力を強める。
「バカ!」
「いや、あの」
「バカ!」
「……」
「バカぁ……!」
「……ごめん」
「ほんとにいなくなるなんて……何考えてるのよ」
「…………」
「ずっと側にいるって……言ったじゃない……!」
「…………ごめん、華琳」
ひとしきり恨み言を言い終えると、華琳は顔を上げた。
目にはまだ涙を浮かべたまま、でも強い意志を籠めた目で一刀を見あげる。
また一刀も応えるように目を合わせる。
「……一刀、あなたは誰のもの?」
「俺は、華琳のものだよ……」
それは奇しくも在りし日のやりとりと同じ。
答えに満足したのか、華琳は見るものを魅了する最高の笑みを浮かべて
「ずっと……私の側にいなさい」
「ああ……ずっと、華琳の側にいるよ」
一刀と華琳。
もう二度と離れないように、お互いをきつく抱きしめあいながら。
触れるような優しいキスを交わした。
――――琥珀の月が映し出す、取り戻したあの面影――――
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